早稲田大学セミナー「ビットコイン分裂問題の行方」開催に協力

DASF は早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター開設記念セミナー「ビットコイン分裂問題の行方」の開催に協力いたします。

https://www.waseda.jp/fcom/wbs/news/4970

日時 : 2017年7月31日(月)14:00-16:00(開場:13:30)
場所 : 早稲田大学11号館5階505教室

ぜひ奮ってご参加ください。

ビットコイン分裂問題に思う
~DASF第1回月例会代表理事挨拶

2017年7月20日

自律分散社会フォーラムの代表理事を務めております岩村です。本日は、記念すべき第1回の月例会にお集まり頂きありがとうございます。互いの知見と問題意識を共有し、また異なる意見を尊敬しあう場としてのフォーラム、その第1回ではございますが、ビットコインの価格の乱高下や8月にもと言われるブロックチェーンの分裂、そしてイーサリアム上でのICOによる資金調達の流行など、本日お集まりいただいた皆様のご関心が深いであろう事象が次々と伝えられるなかでの月例会となりましたので、まずは私が思うことをお話しして、議論の材料を提供させていただきたいと思います。

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まず、ビットコインの価格ですが、私は、それをバブルというかどうかは別にして、安定的に維持し続けるのは難しい、さらに上値に行く可能性もなしとはしないが、反対に簡単に崩壊するリスクも否定できないのではないかと思っています。

ビットコインの価格形成については、2014年から翌年にかけて、これは今日も出席いただいている理事の北村さんや副代表理事の斉藤さんなどと一緒に、“Can we stabilize the price of a Cryptocurrency?”という論文原稿をまとめて、一橋大学経済研究所のHPにディスカッションペーパーとして発表させていただき、これは相当の反響をいただきました。そこでも書いておいたことなのですが、ビットコインの価格は、長期的には、いわゆる均衡価格としてマイニングのコストと釣り合わなければならないはずのところ、ビットコインの生成スケジュール、経済学の言葉でいうところの供給曲線が、そうした均衡価格を安定させるような仕組みになっていないので、ビットコインはわずかなきっかけで上方にも下方にも値が跳びやすいという特徴があります。

もう少し丁寧に言うとビットコインの価格というのは、基本的に、現在どれほどの資源がマイニングに投入されているか(どれほどのマイナーが参加しているか)ではなく、将来的にどれほどの資源が投入されるか(どれほどのマイナーが参入するか)についの「期待」が変化すると、非常に大きく動いてしまうわけです。こうした傾向は、いわゆる資産価格についてはある程度は起こりやすいことなのですが、ビットコインは特にそうなりやすい設計になっています。これは、ぜひとも注意しておきたいことです。

ただ、このことは、お集りの方々はすでにご存じのことでしょうから、今日は念押し程度に話したということにさせてください。

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次にビットコインの「フォーク」とか「分裂」についてです。私は、ビットコインのように自律分散型のレッジャーで管理される記録の文法あるいはプロトコルが進化するときには、連鎖型記録であるブロックチェーンのフォークつまり分裂という形をとるのは自然であり、むしろ健全なことだと思っています。もちろん、レッジャーに関係する人たちすべてが賛成すれば、今までのブロックチェーンつまり記録体系から新しいブロックチェーンが分岐したとしても、記録に関与する人たちの利害関係性の全部が分岐したブロックチェーンに移動してしまうので、今までのブロックチェーンについてその延伸が止まり、分岐した新しいブロックチェーンが延伸し始めていくので、ブロックチェーンが置き換わったように見えることになります。しかし、ブロックチェーンの論理構造からみれば、そこで起こっているのは、分裂(フォーク)であって、変身(トランスフォーム)や変態(メタモルフォーゼ)ではありません。

ブロックチェーンの延伸を生物の生涯にたとえれば、フォークというのは親から子が生まれるようなものと言っても良いような気がします。あるいは、やや手前味噌なたとえで申し訳ないのですが、昨年の春に出版した私の「中央銀行が終わる日」第3章の裏扉で、ビットコインやアルトコインたちの様子はセラードのアリ塚群のように思えるなどと書いたとことに関連して、フォークというのは、そのアリ塚におけるアリ(シロアリ)の分蜂のような気がします。大事なことは、自然界では子を産んだ親や分蜂の後に残ったアリが以前と同じように活動をし続けることがあり、かつ、それが珍しくないのと同じように、分岐したブロックチェーンのどちらも各々に延伸し続けることがあって当然のことなのです。

フォークがまるで「お家騒動」のように報じられる、それを聞いた人々が動揺したり喝采したりするのは、家長ならぬ中央管理者がいて当然のネットワークつまりはセンター管理型ネットワークに私たちが慣れすぎているからなのではないでしょうか。中央管理型ネットワークでは、中央管理者が自身の存続を前提に管理下にあるネットワークを作り替えていきます。しかし、自律分散型の社会では、社会を構成する各々のネットワークに生じるフォークが、全体としてネットワーク群の「生態系」を変化させ、長期的には人々により歓迎されるものへと発展させていく、そうした運動律が働くのだろうと私は思っています。

自律分散社会を構成するネットワークは自らの意思で行動する人々の集まりです。ですから、集まりの中に異なった意見や方向感があるとき、無理に一緒にいようとするのではなく、別々にいても維持可能であるのなら、離れて各々に発展の道を探る方が健全でしょう。それは、国家と国家あるいは通貨と通貨との関係にも言えることです。無理な統合よりは尊重しあう独立や分離の方が良いはずなのにと思うことが、私は少なくありません。

付け加えますと、投資家から見たビットコインの価値(時価総額)は、すでにお話ししたように、現在ではなく将来においてマイニングに参加するリソースの経済価値に対する期待に見合って上下しているはずです。現状ではなく期待が価値を決めるのです。期待が膨らめばマイニングに投入される資源が増加し、縮めば逆のことが起こります。ですから、たとえば1BTCが2000ドルという値を付けていたときにフォークが生じてビットコインがAとBに分裂したとしたら、それがマイニングへの長期的なリソース投入総量への期待を変えないのであれば、ビットコインAが1700ドルならBは300ドルだが、Aが800ドルならBは1200ドルというようになるだけのことで、そのこと自体はビットコインの保有者には損も得も生じません。損や得が生じるとしたら、分裂に伴って長期的なリソース投入総量への期待が変化したときです。そうした期待の変化があれば、ビットコインの値が上がることもあるし下がることもあり得るでしょう。

今、ビットコインのフォークが重大な問題のように報じられるのは、そうした自律分散系の性質が必ずしも理解されていない、理解されていないにもかかわらず多くの人たちが株式投資と同じような感覚で売買に参加してしまっていることに理由があるように思えます。このフォーラムは、そうした状況に対して問いかけを行い、理解の不十分を補う活動をしていく場でありたいと私は思っています。

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ところで、私が、このままでは危ういと本気で思っていることがあります。それは、日本ではまだまだだが海外では熱気と伝えられている、イーサリアム上での資金調達ICO(イニシャル・コイン・オファリング)についてです。

ICOの問題点は、そこで行われている資金調達が株なのか債券なのか明確でないことだと言われることが良くあります。ただ、私は、それは真実の半分しか見ていない意見ではないだろうか、そもそも株とか債券とかに「分類」できない資金調達があっていけないと言う論理的な根拠もないはずだろう、そのように考えています。ですから、ICOによるコインも、それが分類不能であるから存在して欲しくないとか、国家による投資家保護を受けられないから取り締まられるべきであるというような意見に私は与するつもりはありません。しかし、忘れてならないことは、私たちが当然と思っている世の中の運動律は、個々の法律や契約のような可視的な仕組みだけでなく、それらの法律や契約の背後にあって、普通は存在を意識されない心の中の共通基盤としてのコンセンサス体系にも支えられているということです。そうした体系のことを社会学や政治学ではソーシャル・キャピタル(社会関係資本)と言うのだそうですが、私はこの分野に詳しくないので、あまり深入りするのは避けましょう。ただ、私が見るところ、今のICOというのは、紙に書いた契約を分散レッジャー上に移し、それをスマート・コントラクトなどと名付ければ、それで企業が成立し世の中が動き出すかのように思っている人たちが作っているように思えてなりません。でも、そうだとしたら、ICOは危うい、そう思うわけです。

イーサリアムは新しいソーシャル・キャピタルを作り出す基盤を提供するものになる可能性はあると思いますし、それに挑戦しようとする人たちを私は敬意をもって見ているつもりです。しかし、スマート・コントラクトという形とICOという名で資金を調達しさえすれば、それだけで企業が富を作る活動を開始できる、あるいは維持できるとは思わない方が良いのではないでしょうか。

企業ということに関連しては、あのロナルド・コースが、今から80年も前の1937年に発表した「企業の本質」で、企業とは単なる契約書の束ではない、企業とは人々が構成する仕組みそのものなのだということを見事に言い切っています。もちろん、契約書がなければ企業を形成するのは非常に難しくなります。しかし、契約書を作りさえすれば企業が動き出し、それに関与する人たちの望みに応えてくれるわけではないのです。今のICOのブームには、そうした先人の見識についての無理解が隠れているようで恐ろしくなるところがあります。

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バブルという言葉についていえば、イーサリアム上のICOはバブルなのか、ビットコインの今の価格はバブルなのか、それは分かりません。バブルは崩壊して初めてバブルであることが分かるし、それだからバブルなのです。ただ、イーサリアム上のICOの風景は、あのジョン・ローが演じた18世紀のミシシッピー・バブルの再来のように見えるところがあります。ちなみに、ジョン・ローは、そもそも経済的価値というものは利用価値ではなく希少性から生じるということを初めて論じたほどの人物ですから、いわゆる詐欺師でも愚か者でもなかったはずでしょう。しかし、彼のプロジェクトは、ルイ王政下のフランスでは早すぎたのではないかと私は思っています。このとき、ミシシッピー会社とセットになった銀行が発行した紙幣はバブル崩壊後にただの紙くずになりました。

ちなみに、今のビットコインについていえば、価格が急落しても決済手段として利用する分には問題はないと言えます。その意味では、ビットコインにバブルがあるとしても、それは17世紀オランダのチューリップ球根価格に生じたバブルのようなものでしょう。バブルが崩壊しても、球根を地に植えれば美しい花が咲くことに変わりはありません。

私たち自律分散社会フォーラムでは、似たものや似たように見えるものを、仮想通貨とかフィンテックなどという用語で簡単に括ることをしない、そうして冷静で具体的な議論をする、そう心がけたいと思っています。

自律分散社会フォーラム代表理事
早稲田大学大学院経営管理研究科
教授 岩村充